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Posted by namjai at

2010年02月01日

アユタヤ後期の歴史!

今回は、アユタヤ時代後期についてです。
24代目から27代目までは、プラサートトーン王家の王が支配していました。
24代目は、王家の名前と同じくプラサートトーン王でした。
この王は、クメール式美術の再興や仏教の振興をはかったといわれています。
また、以前ご紹介した日本人村を消滅させた王でもあります。
ワット・チャイワッタラーナームやワット・マハータート(再建)、ワット・タンミカラートを建立したといわれています。

27代目の王であるナーラーイはフランス政策を推進し、1662年にはフランスのイエズス会に教会や学校の建設を許可しました。
古典文学の基礎が作られたのもこの頃で、王は天文学にも興味があったようで月食や日食の観測を自ら行ったといわれています。
St.Joseph教会が創建されたのもこの頃で、当時は日本人の神父もいたようです。
バーン・ブルールワン王家は、28代から33代目まで続きました。

特に、30代目のターイサ王のころは、アユタヤ朝が最も安定した時期といわれています。
安定時期の為か、王の趣味は釣りだったようで、この釣り好きから、ターイサ(池の端)と呼ばれていました。
米の輸出も盛んに行われ、インドをはじめ中国やジャワなどへも輸出されていました。
カンボジアを攻めたのもこの王です。
この王の時代には、ワット・マヘーヨンやワット・クディダーオの改修も行われました。
31代目の王は、ボーロマコートです。
この王の時代も、30代目に引き続き安定しておりました。
スリランカ仏教の建て直しをはかった王としても知られています。
また、ワット・スワン・ダララムという寺院が建てられました。
この寺院は遺跡ではなく、現存する寺院です。

そして、ついに33代目エーカタット王の時代にアユタヤ王朝は滅亡してしまいます。
1760年、ビルマのアラウンパヤー王がアユタヤを包囲します。
そして、5年後の1765年にはシンビュシン王率いるビルマ軍が再びアユタヤを包囲します。
1767年、4月7日アユタヤは滅亡となり、タイは分裂しました。
その後、1782年にチャプラヤー・チャクリーが王として即位することとなり、ラッタなコーシンという新しい王朝の時代が始まることとなります。  

Posted by tairage at 12:21アユタヤ(タイ)の歴史

2010年01月31日

アユタヤ中期の歴史!

今回は中期についてのお話です。
9代目スバンブリー王家ボーロマラーチャティラート3世から始まります。
この王は1488年インド洋に貿易拠点を確保しました。

10代目は、同じくスバンブリー王家のラーマーティボディ2世です。
ワット・プラシーサンペットとワット・ナー・プラメーンを建立したことでも知られています。
11代目から16代目まで、同じくスバンブリー王家が続きました。
15代目チャクラパットはチェディー・シースリヨータイという、王妃の遺骨を祀る仏塔を建て、16代目マヒントラーティラートはワット・プーカーオトーンというアユタヤでは第2の高さを誇る仏塔を建てました。
その後、17代目から23代目までは、スコータイ王家が続きました。

18代目ナレースワン大王の時には日本の朱印船がアユタヤに来航しました。
また、この王はワット・ヤイチャイモンコンというアユタヤでは一番の高さを誇る仏塔を建てました。
この建物は、地元の人はワット・ヤイと短く呼んでいるそうです。
21代目ソンタムの時は、以前ご紹介しました日本町が急速に発達したといわれています。
この王は、使節団を三回に渡って日本へ派遣しました。

22代目チェターティラートは、日本人の軍の援助を得て弟を処刑して即位したといわれていますが、最期は自らも処刑されました。
日本だけではなく、時代によってこのように実の兄弟や家族を自分の手によって殺すということが起きることが当たり前であることは今の時代の私たちにとっては考えられないことです。
ですが、その時代にはその時代の当たり前の考え方というものがありますので、今の私たちの暮らしや考え方が当時の人々には同じように考えられないことかもしれません。  

Posted by tairage at 13:11アユタヤ(タイ)の歴史

2010年01月30日

アユタヤ前期の歴史!

417年にわたって繁栄したアユタヤ時代にはかつて5つの王家が存在していました。
ウートーン王家、スパンプリー王家、スコータイ王家、プラサートトーン王家、バーン・プルールワン王家です。
33代も続いたアユタヤ王朝は、初代はウートーン王家のラーマーティボディ1世(はっきりとした出身は残っていませんが、ワット・ヤイ・チャイ・モンコンを1351年に建立したといわれており、今も多くの信者たちの祈りの場となっています)から始まりました。
この町を、クルンテープ・タワーラワーディー・シーアユッタヤーと命名しました。

2代目は、ウートーン王家のラーメースワンです。
クメール帝国の都であるアンコール・トムを攻撃したものの失敗に終わり王を退くこととなりました。
3代目は、スバンブリー王家のボーロマラーチャティラート1世です。
1378年にスコータイ朝を降伏させアユタヤの属国とし、1388年にはアンコール・トムを攻撃します。
そして、その年に次の王となったのはスバンブリー王家のトーンランでした。

しかし、この4代目は即位してわずか7日でラーメースワンに処刑されてしまいます。
その後5代目は、ウートーン王家のラーマラーチャーティラーとなります。
スバンブリー王家のインタラーチャーティラート2世が5代目の王を追放したことにより6代目となります。
7代目はボーロマラーチャティラート2世です。
この王はアンコールを占領しカンボジアから多数の住民を連行してきました。
これにより、政治や芸術面においてアンボジアの影響が強まることとなりました。
ワット・ラーチャブーラナやワット・マヘーヨンの寺院が建てられたのもこの時期です。

8代目もスバンブリー王家で、ボーロマトライローカナートです。
在位は40年で、アユタヤ王朝の中で最も長いといわれています。
この王は、サクディナー制(水田の面積で社会的地位をあらわすもの)を定め、他には中央官制の整備も行いました。
また、ウィハーン・プラモンコンボビットという大仏の製作も行いました。
以上が、アユタヤ前期の紹介となります。  

Posted by tairage at 09:35アユタヤ(タイ)の歴史

2010年01月29日

タイで栄えたアユタヤ王朝について!(3)

前回に引き続きまして、アユタヤ王朝についてお話していきましょう。
アユタヤには日本人町が存在していたというお話の続きとなります。

日本人町には、大きい港が建設されていました。
このことから日本人の貿易量がかなり多く、栄えていたと考えられます。
日本人村にはキリシタンもおりましたがこのキリシタンは、幕府の禁教によって逃れてきたと考えられております。
日本での禁教は250年にわたり行われ、キリシタンへ迫害や殉教を迫るなど、キリシタンを徹底的に追放しておりました。
そこから逃れて日本人村へと行き着いた人々はアユタヤにて迫害を受けることなく暮らしていたようです。

日本人町はこのような人々の構成によって、次第に力を増していきました。
しかし、この勢力が増したことによって、のちにアユタヤ君主の目についてしまうこととなるのです。
これ以上日本人勢力が増すことを恐れた君主は、王室のみに貿易させるように決定してしまいます。

その後1630年には、謀反の動きがあるということで日本人町は焼き払われ、そこで暮らしていた住民は虐殺されるという悲劇が起きることとなったのでした。
これによって日本人の軍事、政治勢力は完全に失われてしまいました。
その後、1632年焼き討ちを逃れていた日本人400人程度が、日本人町を再興し18世紀初めまでは存続しました。

しかし、次第にタイ族に同化していき最終的には自然消滅という形で姿を消したようです。
アユタヤ郊外チャオプラヤー川の近くには、当時を伝える日本人町跡地があり、公園となっておりますがここには記念碑もあるとのことです。  

Posted by tairage at 10:20アユタヤ(タイ)の歴史

2010年01月28日

タイで栄えたアユタヤ王朝について!(2)

前回に引き続きましてアユタヤ王朝についてのお話をしていきましょう。
アユタヤはクメール人によって建設されました。

クメール人の特徴としては、唇は厚く目の色は私たち日本人のように黒く、髪の毛はくせ毛で皮膚は銅のような色でした。
身長は165センチとやや低めで、性格は温和だったようです。
ほとんどの人々は農業によって暮らしておりましたので、お米を主食とし魚が好物であったといわれています。

私たち日本人とどことなく似ているように感じませんか?
アユタヤは別名アヨーダヤーとも呼ばれ、13世紀から14世紀前半まで高度な文化を保持していたようです。
近くには、ロッブリー川、チャオプラヤー川、パーサック川がありましたので貿易も行われておりました。

アユタヤには1606年、日本使節が渡った記録がありこのとき徳川家康の書を携えていきまして、このあとアユタヤからも日本に向けて貿易船が数多く来航しました。
アユタヤの城外には日本人町が作られ最盛期には1000人から1500人もの日本人が暮らしていたようです。

日本の戦国時代(関ヶ原の戦いや大阪の役の後)に主君を失った者たちが流れてきたようで、アユタヤにとっても経験豊富な日本人の兵力は魅力的だったようで積極的に雇い入れていたようです。
これによりアユタヤは、政治的にも大きな力を持つこととなりました。
この町には、浪人や貿易をする者やキリシタンや彼らの配偶者や使用人などで構成されていました。  

Posted by tairage at 10:05アユタヤ(タイ)の歴史

2010年01月27日

タイで栄えたアユタヤ王朝について!

タイの歴史は、BC3~1238年まで古代・中世、1238年から1448年までスコータイ王朝、1351年~1767年までアユタヤ王朝、1768年~1782年までトンブリー王朝、1782年~1932年までラッタナコーシン王朝、そして、1932年からタイ国となっております。
アユタヤ王朝は、タイ中部を中心として展開していった王朝です。

創設者は、ラーマーティボディ1世(ウートン王)です。
ウートンとは、金のゆりかごという意味でタイの中部ではこの名前を持つ王は多かったといわれています。
ラーマーティボディ1世は、仏僧を招いて国内統一のために小乗仏教を国内の宗教としていました。
小乗仏教とは、仏教の分類のひとつであり、この他に大乗仏教などもあります。
他に、三印法典(ダルマシャスートラ)を整備し、19世紀ごろまで基本法典として機能していました。

現在のタイという場所は、位置的にまわりの国々の中心にもあるという利点を生かして貿易によって栄えました。
アユタヤ王朝時代は、西洋との貿易を活発に行い莫大な富を蓄えたといわれています。
貿易によって他の国から様々な文化も取り入れることとなり、アユタヤ時代の文化はその影響もあり大変華やかなものであったといわれています。

しかし、1767年にシンビューシンによって滅亡します。
このとき、アユタヤの町は壊滅状態となってしまい、後の王タークシンはアユタヤの復興は諦めてしまいます。
現在のアユタヤには廃墟となった遺跡が残されておりますので、当時の面影を感じることができるでしょう。  

Posted by tairage at 09:36アユタヤ(タイ)の歴史